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2005年12月24日 (土)

偉大なコリア教授のお話を聞け!

 ノーベール賞の受賞の噂で話題持ち切りだったコリア教授の研究成果は、案の定捏造だったようだ。

産経黒田氏による、黄教授論文捏造事件の分析
 mumurブログ
産経新聞
韓国、過剰な「愛国」暗転

【ソウル=黒田勝弘】韓国での世界初の研究成果は“偽造”だった-。内外を騒がせていた黄禹錫ソウル大教授の“ES細胞培養成功”をめぐる疑惑に対しソウル大調査委員会はクロと判定した。最終調査にはまだ時間がかかるというが、黄教授が研究成果として公式発表した米科学雑誌掲載の論文は「データ捏造による虚偽」と断定された。
 この結果、黄教授はもちろん、国を挙げて彼をもてはやしてきた韓国は「生命工学の最先端国」から一転して「ニセモノ科学の国」になってしまった。今回の捏造疑惑追及が外国からの指摘ではなく、国内の研究者やマスコミによる一種の“内部告発”によるものだったことは救いだが、韓国の国家イメージ失墜は避けられない。
 世界まであざむく結果となった“黄教授騒動”の背景については(1)韓国でよく見られる成果や業績を急ぐあまりの拙速(2)国際的な配慮や慎重さを欠いた視野の狭い「やっちゃえ」主義(3)政権の業績にしたい政府の過剰な期待と支援(4)「やった、やった!」あるいは「ウリナラ(わが国)最高!」的な世論の愛国主義-などが複合的に重なった結果といわれる。
 韓国ではこれまで、黄教授を世界に誇る最高の科学者として国を挙げて英雄視し「ノーベル賞確実」などともてはやしてきた。とくに問題の「ES細胞」は人間の臓器を自由につくる可能性を開く「夢の万能細胞」といわれる。将来の医療ビジネスの最高の“商品”として米英など先進各国が研究、開発に血眼になってきた分野だ。
 このため、韓国では「黄教授の研究成果によって人類が難病から救われる」などとして、早速、国際的な“ES細胞銀行”を目指しソウル大に「世界ES細胞ハブ」が設置された。政府は黄教授に今年度だけで約三百億ウォン(三十五億円)の支援をしている。韓国は今後、生命工学を含む世界の先端医療の中心(ハブ)になるということだった。
 この結果、ES細胞の話がマスコミに登場しない日はないほど黄教授は国民的な人気者になった。国民すべてがまるで生命工学の専門家になったようにES細胞や黄教授のことを話題にするといった社会的熱狂が続いた。黄教授の疑惑を最初に提起したMBCテレビは“国家的裏切り者”あるいは“非国民”として世論の非難を浴び、愛国デモに押しかけられたり広告拒否や番組中断に追い込まれた。
 国際的に競争が激しい先端科学では、学術論文や研究成果の捏造は先進国を含め各国でままある。しかし韓国ではそれが愛国主義に結びついた。世論が一色となって異論、異見を許さない雰囲気になるのだ。“反日”のような外交、政治問題はもちろんとして、今回は冷静な学問的判断が求められる科学分野にまでそれが広がった。事件の反省点として「過剰な愛国主義」も挙げられている。



さすが、産経の黒田さん。
問題点をビシッと的確に指摘してます。

今回の事件の面白さは、二つに大別できます。

・科学者が捏造を行った
・捏造の指摘に対する国民の反応

このうち、前者は世界中どこでもありうること。
一方、後者は韓国に特有の問題。コリアウォッチャーとしては、ここが見所。

更に黒田氏は、韓国人の過剰な愛国心を反日とも結び付けている。
彼らが歴史捏造を繰り返すのは、その過剰な愛国心故なのである。

 本日は、コリア教授つながりということで、再度「稲」の話題に触れてみたい。
 ヲシテ文献によると種籾の発見と栽培法を考案されたのが「ウケモチ」さんとされている。一方、旧来の学説では、中国の雲南地方からインドのアッサム地方が発祥の地で、そこから朝鮮半島経由で日本に渡ってきたとされる説が強かったようだ。

偉大なるコリア!
 大日本焼肉文化研究所
Q1 日本に住む私たちの主食である米は、いつどのようにしてつくられるようになったのですか?
 米の栽培種の発祥の地は、中国の雲南地方からインドのアッサム地方にかけての地と考えられています。そしてその米がどのような道を通って日本列島へやってきたかは様々な説がありますが、有力な道は中国を経て紀元前の5世紀頃(今から2500年ほど前)に朝鮮半島から日本列島へ伝えられたとする説が有力です。

 実はジャポニカ米は日本で品種改良され、大日本帝国が朝鮮、満州に伝えた。
 だから現在ジャポニカ米を食べるのは満州、朝鮮、日本だけである。
日本より寒い朝鮮から稲作が伝わるなどちゃんちゃらおかしいw

 しかし、この学説の考え方も、変わってきたようである。中国の長江下流の河姆渡(かぼと)地方で朝鮮半島の稲に存在しないDNAをもったより古い稲が見つかったからである。

稲のたどってきた道
 at home こだわりアカデミー
身近な存在にも関わらず、意外と謎の多い植物「稲」

―― 先生のご著書『DNAが語る稲作文明』を、大変興味深く読ませていただき、これまで私達が学校で教わってきた日本の稲作の起源や縄文文化の通説を次々と覆していらっしゃる内容に驚きました。今日は、日本の稲作の起源を中心にお話を伺いたいと思います。

ところで先生は、やはり遺伝学の見地から稲の研究を始められたのですか?

佐藤 育種学(※)から稲の研究に入り、今でこそDNAを使って研究をしていますが、もともとはフィールドワークが中心で、これまで日本に限らずアジア各国で調査研究をしてきました。

―― 先生が研究を始められた頃、稲作の起源については、どのように考えられていたのでしょうか?

佐藤 インドのアッサムや中国の雲南が起源だというのが通説でした。この説は、1977年に発表されたもので、建物の煉瓦に含まれているモミの長さなどを元に推測したものだったのです。

それまで稲の起源については、議論はされていても、科学的な根拠などが乏しかったので、この説は当時としては非常に説得力のあるものでした。

―― 「でした」ということは・・・。
佐藤 実は「アッサム-雲南説」が発表される4年前に、中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土したんです。しかし残念なことに、当時は、それがあまり重要ととらえられず、大した調査もされなかった・・・。

―― それほどまでに、「アッサム-雲南説」が強かったともいえますね。

佐藤 はい。しかしここ数年の調査で、河姆渡からは栽培稲だけでなく、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見され、さらに野生稲から栽培稲へと変っていった痕跡も発見されています。以前は7000年前という年代の真偽が問われたこともありましたが、現在、最も信頼できる手法を用いて出土したモミを測定したところ、確かにその時代のものだと証明されています。それで私は、稲作の起源は長江流域にあるのではと思うようになりました。
※育種学・・・作物の選抜や交配により、有用な品種を作り出すことを育種という。有用な遺伝的変異の発見と作出、遺伝的変異の選抜と固定、有用品種の増殖と普及を主なテーマとした、育種技術に関する総合的な学問

水田栽培だけが稲作ではない!?高度な技術は不要?

―― 7000年前の稲作というのは、どのようなものだったのか、興味が湧きますね。

佐藤 その前に、稲は、大きく分けるとインディカとジャポニカの2種類あります。さらにジャポニカというのは、温帯ジャポニカといって一般に水稲と呼ばれている水田栽培向きの品種と、熱帯ジャポニカという一般に陸稲と呼ばれている畑作向きの品種の2種類に分れます。

―― インディカというのは、私達にはあまり馴染みのないものですね。

佐藤 そうですね。私達に馴染み深いのは、やはりジャポニカです。実は私は、この長江流域を起源とする品種もジャポニカだと思っているんです。またその栽培方法は、ただ地面にモミを播くだけという雑駁(ざっぱく)農耕だったのではないかと考えています。

というのも長江流域というのは湿地帯ですから稲の栽培に向いている。モミを播くだけで稲が育つんです。現にアジア各国をまわってみると分るのですが、水田で稲作をしているのは半分くらい、あとの半分は今でも雑駁農耕が行なわれています。

佐藤 実は「アッサム-雲南説」が発表される4年前に、中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土したんです。しかし残念なことに、当時は、それがあまり重要ととらえられず、大した調査もされなかった・・・。

―― 稲作というと水田と思いがちですが・・・

佐藤 ところが、稲作は水田でなくてもできるのです。現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。

―― 何か発見があったのですか?

佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができます。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。

それで1990年代に入って、ようやく縄文時代にも稲作があったということが考古学界でも認められるようになりました。
(省略)
朝鮮半島には存在しない、中国固有の水稲が出土!

(省略)
佐藤 これだけじゃないんですよ。実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。

(省略)

 これにより、稲のDNAが朝鮮半島のと異なることに加え、そもそも寒い朝鮮半島を経由して稲が日本に伝わることに対する疑問とから、稲が直接中国から日本に伝わったという説が認められてきたようだ。

稲の道
 日本人はるかな旅展
稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれます。その後、稲作は、この地域から北上して黄河流域まで一部伝わり、さらに東進して朝鮮半島には約4000年前ころに伝わりました。日本には、約2500年前に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から渡来して水田稲作が始まったとする考えが、土器や石器あるいは人骨の研究から有力です。ただし、最近では、稲のDNAの研究によって、中国中南部から直接渡来したという考えが提唱されています。なお、縄文時代にすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつあります。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合により耐寒性のある早生ジャポニカの品種が誕生したと考えられています。


 しかしながら、根強く朝鮮半島経由で稲を日本に伝えてあげたと主張するコリア教授のような人達がいるのも事実である。

偉大なコリア教授のお話を聞け!
 大日本焼肉文化研究所

2001年8月24日(金) 読売新聞朝刊

NIE特集 もっと知りたい隣の国 日・韓・北朝鮮
日朝密接2400年 李進煕・和光大名誉教授に聞く

 日本列島と朝鮮半島とは、長い交流の歴史があります。日本での生活が50年以上になる韓国人、李進煕(リジンヒ)和光大学名誉教授(72)=考古学、写真=に交流の歴史についてうかがいました。


 稲作技術 伝来

 朝鮮と日本の交流は、縄文時代に始まっていたと考えられます。紀元前4世紀ごろ、稲作技術が、朝鮮半島から九州北部に石包丁などの道具とともに伝わりました。

凡人
おや?朝鮮民族が白米を食べるようになったのは朝鮮総督府時代からでは?
そもそも、なぜ南コリアでは縄文土器が出土するのですか?
なぜ曲玉などが出土するのですか?
ちなみに稲作は中国から日本に伝わった。
そもそも、朝鮮から日本に稲作は伝わらない。
だいたい今でも北朝鮮で稲作なんかしているのか?pu
あんな寒い地区でw
朝鮮から稲作が伝わったのなら、シベリア、北方領土からも稲作が伝わった可能性があります!
大変だ!
歴史が変わる!



なぜ朝鮮からだとわかるかというと、食べているコメの種類と石包丁が同じだからです。ジャポニカ種というコメを食べているのは朝鮮、日本に限られた地域だからです。紀元前1世紀には鉄器や青銅器が入ってきます。


凡人
そりゃ日本から朝鮮に伝わったのだから似ていて当然だろ
南コリアでは倭人が稲作をしていました。
だから縄文土器や、曲玉、前方後円墳が出土しますが、破壊に忙しいそうですpu
南朝鮮では前方後円墳が出ると破壊して、証拠を隠滅しています。
なぜなら、日本が南朝鮮を支配していた証拠になるからです。
いわゆる任那日本府です。
(大爆笑



 紀元5、6世紀になると、様々な技術を持った多くの人が日本に渡って来ました。

凡人
ただの難民だろ?

そのころ朝鮮半島は内乱状態で、これを逃れてきた、いわゆるボートピープルです。安定した食料であるコメを得たうえ、彼らが伝えたかんがいや堤防の技術により農業が発達、その後の日本社会に大きな影響(えいきょう)を与えました。

凡人
で、なんで日本には朝鮮の影響を受けた物がほとんど無いのに、なぜ朝鮮語の7割以上が日本語なのですか?

 鎖国下も特別な関係

 室町時代の両国の交流について、教科書ではあまり触れていませんが、なんと言っても木綿(もめん)が挙げられます。朝鮮で生産された木綿がたくさん日本に輸入されます。麻や絹しか知らなかった日本人にとって画期的なことでした。この「もめん」という言葉は、韓国語の「モンメン」から来ているのです。

凡人
モメンという呼び方は朝鮮総督府が教えたのでは?
昔は別の呼び方をしていたはずだが。
木綿を教えたですか?
絹を作る高度な民族に、ぼろの木綿を教えるとはw
飛行機に乗っている人に、自転車の乗り方を教えてやる!
と自慢しているのと同じですね。
爆笑


 その後、朝鮮との関係は豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略(しんりゃく)で悪化しましたが、徳川家康は関係回復を図り、条約を結び、将軍の代がわりごとに朝鮮通信使が計12回来日しています。一行は500人ぐらいで、船で瀬戸内海を通って大阪に入り京都を経て江戸へ上ります。寄港地や街道の宿舎では様々な交流がありました。また、韓国の釜山には、長崎の出島を上回る規模の領事館ともいうべき「草梁倭館(そうりょうわかん)」が作られ、経済交流も盛んに行われました。江戸時代は外交上、「鎖国の世」と言われますが、朝鮮とは特別な関係にあったのです。

凡人
詳しくは当方の偉大なり!朝鮮通信士をご覧くださいw

 日本の植民地支配も

 明治時代以降、二度の戦争があり、朝鮮半島は一時期、日本の植民地として支配されました。この問題では、現在もしばしば両国間で摩擦を引き起こしています。しかし、これまでも隣の国として共に生きてきました。これからも、共に生きていかなければなりません。そのためにはきちんと話し合って、仲良くしていくことが大切です。

凡人
何時朝鮮が大国日本、中国、ロシアと対等になったことがある?
アホか?
ちなみに高句麗はツングース族ですので、朝鮮人とは関係ありません。

作成日: 2001年08月29日

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ここではいかにコリア人を論破するのが容易いかを実験しています。

こんなのでも教授になれるんだったら、俺は学長になれるよpu



 陸稲から現在のような水稲にかわるにつれて、労力も増す。人口増加に伴い必要な水田の量も増すが、それに必要とされる労働力も増すので簡単に収穫量が増えなかったのが、当時の背景だったのであろう。では、先人達は、どのように克服してきたのであろうか?サンプルを以下に記す。

墾田永年私財法
 ウィキペディア
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)とは、奈良時代中期の743年(天平15)5月27日に発布された勅(天皇による命令)であり、墾田の永年私財化を認める画期的な法令である。 古くは、墾田永世私有法と呼称した。これが発展し、荘園が作られるようになった。
(省略)
法の効果
765年(天平神護1)3月6日には、「墾田が加熱し過ぎてきたので、墾田を禁止する」旨の太政官符が発布され、772年(宝亀3)10月14日には、「やっぱ開墾を認めます(ただし百姓が苦しまないように!)」という太政官符が発布されている。
(省略)

 2つ目は、江戸時代前半での農具の改良(下記)及び新田の大規模開発である。新しい歴史教科書によると、豊臣秀吉による刀狩を経て、平和となった江戸幕府が開かれてから100年の間に全国の田畑の面積はおよそ2倍近く増加したようである。

農具
 地球旅行研究所
【近世における農具の改良】(省略) 井原西鶴が『日本永代蔵』で〈古代は二人して穂先を扱けるに〉というのはこれである。扱箸がこのように改良されたが,何といってもセンセーショナルなのは「千歯扱き」である。千歯扱きは日本で発明されたもので,初めは竹の歯で麦を扱いていた(1681年ごろの『百姓伝記』)。1688年(元禄1)に前述の『日本永代蔵』に〈尖竹(とがりたけ)を並べ,これを後家倒しと名付く〉とあり,竹の歯である。竹の歯が鉄に変わり,稲を扱くようになったのは元禄年間で,和泉高石村の大工の発明といわれている(『日本輿地通志』畿内部)。千歯扱きの能率は当初は扱箸の2~3倍であったが,その後の改良によって5倍にも達し,従来の扱箸作業に従事した婦女子の職場を奪ったことから西鶴が指摘しているように“後家倒し”の異名をもって呼ばれた。


 以上のような万全を期した努力をしたとしても、想像を超えるような大規模な自然災害(収穫量の半減)には太刀打ちできず、餓死者が続出したようである。

寛永の大飢饉
 歴史の館Mizoe
 三代将軍家光の治下、寛永19年(1642)と翌年20年にかけて、大飢饉が起こった。近世前期最大規模の飢饉といわれた。寛永18年の夏頃から、その兆候が見られた。五幾内、中国、四国で日照りが続き、豊後の臼杵では夏の大旱魃の後、8月に大洪水が起こって、引き金を引いた。

 この異常気象は全国に広がった。秋田では8月だというのに霜がおり、会津では大雨と雹(ひょう)が降り、加賀でも長雨と冷風で酷かった。さらに備後は大水が出た。秋になると全国的な不作、凶作が明らかになった。肥後でも害虫が大量発生した。寛永19年に入ると、年頭には作柄は例年より良いと言っていたが、7月から8月にかけて全国的な旱魃(かんばつ)と冷害に見舞われ、前年の天候不順に輪をかけた異常気象となった。9月に入ると、北の津軽藩から南の薩摩藩まで2年続きの不作・凶作が明確になった。

 飢饉が全国的に広がった。山形藩を例に上げれば、寛永15年に7万8千715石あったものが、寛永18年に3万6千496石、寛永19年に3万1千279石と激滅している。だから、寛永19年の正月から百姓の手元にさえ食料がなくなり、田だけでなく、畑も大不作だから、雑穀、野菜も手に入らなくなった。

 都市部で米麦、大豆等の値段が高騰し、全国各地で餓死者が出るようになった。18年-19年の凶作は20年にも皺寄せが来た。家光はこの未曾有の大飢饉に対処する為、寛永19年諸国への巡見使派遣をやめ、参勤交代を免除して帰国させた。旗本・譜代大名にも交代で知行地・領地への出張を命じ、飢饉への仕置きと撫育をさせた。『諸国在々所々田畑あれざるやうに、精を入れ耕作すべし。若し立毛損亡なきの所申し掠め、年貢を難渋せしめるの族これあるにおいては、曲事てるべきものなり』と言う高礼を書かせて、街角に建たせた。

 さらに家光は詳細な飢饉対策に関する触書を全国の大名に発布し、大名と領主が率先して倹約に務め、煙草の田畑作付けを禁止した。9月になると大名達が不作で疲弊した百姓を育み、百姓に対して非議のないよう命じ、酒造を半分に減らし、五穀の費えになるうどん、そうめん、蕎麦切り、饅頭の製造の禁止、食物を粗末にしないように指示している。それでも、19年末から20年にかけて餓死者が続出した。

 我々も大規模災害を想定して日頃より食糧などを備蓄するよう心がけたいものである。

 一方、朝鮮半島では、1871年~1872年に、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃したようである。これは、儒教思想による身分制度の絶対性からくる、「民への慈悲の欠如」による人災である。今の北朝鮮の慢性的な飢餓状態と同類であり、日本の天災による飢饉とは意味が異なる。このような我が国の努力の歴史的背景を無視し、かつ、そもそも日韓併合前から飢餓状態であったにもかかわらず、その責任を全て併合した我が国になすりつける主張には、騙されないようにして頂きたい。
 捏造の例として朝鮮が飢餓輸出させられたとの話がある。

1920年代の経済政策
 NALGAE FUJINAGA Takeshi's Home Page

(1)産米増殖計画

a)背景:米騒動(1918)→外米輸入から植民地米輸入へ
 食糧の安定的供給(→自給率を高める)、国際収支の改善(外米が圧迫)

 計画着手(1920) 朝鮮米の増産めざす

b)目的

・朝鮮内の需要増加に備える
・朝鮮農家経済の安定
・日本国内の食糧問題解決

c)方法=日本の「近代的」稲作技術の導入

┌土地改良:灌漑施設、地目変更(畑→水田)、開墾・干拓
└農事改良:品種改良、肥料の増施、耕作法の改良(正条植え)

 米中心のモノカルチャー(単作型農業)へ。農業基盤の弱化(干害への抵抗力弱まる)

d)目標 1920から30年間、80万町歩の土地改良(1町歩は約1ha=100m四方)

 第1期(1920~35):42万7500町歩。約900万石増収、半数を日本へ→しかし1925まで、目標の約6割しか達成できず

*投資額の40%に民間資本導入期待→実際には土地改良(自作農)より高率小作料のため、土地所有(地主)の収益が上回り、土地購入に民間資本が流れる

 更新計画(1926修正)
    │
    ↓
 世界恐慌で米価暴落→朝鮮米輸入反対運動で中断(1934)。第2次目標の47%のみ土地改良達成

e)結果

 増産量を上回る対日輸出=飢餓輸出(朝鮮人の消費量減少、満州から粟・こうりゃん輸入)

 土地の兼併促進:日本人大地主の進出、朝鮮農民の没落

 今の朝鮮人の意思による北朝鮮の飢餓輸出を見れば結論が、わかるはずである。だが、少しだけ上記内容を補足したい。
 まず、米騒動の背景として、慢性的な飢餓状態だった李氏朝鮮(/大韓帝国)を1910年に併合した後に、以下のような動乱の世界情勢となり、朝鮮への投資が重荷になってきたということが考えられる。
 
米騒動
 ウィキペディア
経緯
 1914年からはじまった第一次世界大戦中、東南アジアを支配するフランスやイギリスが米の輸出を制限しており、大戦景気で米価は高騰する。これが心理的に微妙な影響を与えた。ロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵に際し、1918年7月23日富山県東水橋(魚津町)の住民らが、米問屋が港から県外に米を運び出すところを目撃する。すぐさま、米の搬出を阻止する暴動に発展した。この事件が、越中女一揆の見出しで新聞に掲載された。

1918年8月2日寺内正毅首相のシベリア出兵宣言で需要増大を見込んだ商社や米問屋らがさらに米の買占め、売り惜しみに走ったため米価が急騰する。一升11銭だった米価が30~33銭程度にまで上昇した。

 そこで、我が国が朝鮮半島の開発に乗り出した。成果は、以下の記事の通りである。

忘れられた国土開発
 国際派日本人養成講座(56)
■1.李朝朝鮮の飢餓地獄■

 本誌55号では、北朝鮮の悲惨な食糧事情により、年間数十万人規模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だった。

 たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」には、次のような記述がある。

 1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。[1,p64]

 まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったから、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。これが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。

■2.20年間で倍増の人口爆発■

 朝鮮半島が急激な人口増加を迎えるのは、20世紀に入ってからである。1906年(明治39年)からの20年間で、980万人から、1,866万人と倍増した。さらに1938年には、2,400万人となった。日韓併合時代である。[1,p29]

 この人口増加の原因としては、いくつかの要因がある。一つは第6代宇垣一成総督による「農産漁村振興運動」などの民生向上活動である。30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。併合当初米の生産量が約1千万石であったのが、20年後の昭和に入ると、2千万石へと倍増した。[1,p80]

 もう一つは医療制度の確立、特に伝染病の予防である。1910年から徹底的な検疫を実施し、コレラ、天然痘、ペストなどは、1918年から20年の大流行を最後に押さえ込まれ、乳児死亡率が激減した。

 さらにインド、中国から朝鮮にかけて猛威を振るっていたハンセン病退治のための救ライ事業として、世界的規模と質を誇る小鹿島更正園を作って、6千人以上もの患者を収容している。[1,p85-86]

 農村振興は、終戦後も朴正熙大統領のセマウル運動として続けられる。宇垣総督の秘書役であった鎌田澤一郎氏が、その経験を買われて何度も朴大統領に呼ばれ、アドバイスをしている。[2,p44]

 北朝鮮が現政権から解放された暁には、日本も援助をして、このような農村振興をもう一度やり直さねばならないだろう。日韓併合時代にどのような国土開発事業を行って、朝鮮半島の民生向上に成功したのか、今のうちに研究しておく必要がある。

■3.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■

 李朝時代の飢餓の一因は、現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあった。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作すると、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこに豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。

 1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような旅行記を残している。

 どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のために刈り取られている。山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど見られない。

 森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らねば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要というのが、寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。[1,p114]

 内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている。[2,p39]

 植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総合的な国土開発事業が展開された。

 これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108]

■4.きめこまかな農民保護政策■

 こうした大規模な国土開発とともに、きめこまかな民生安定化の施策がとられた。宇垣総督時代には、当時8割を占めた小作農の生活を安定させるため、朝鮮農地令を実施して小作権を確立し、税制を整理して、負担を軽くした。さらに低利資金を融通して高利債務を返還させ、多角農業主義により綿花栽培や山羊飼育を奨励した。[3,p414]

 また従来、朝鮮農民が見捨てていたような不毛の地に入植して、開墾する日系移民も約3,800戸あった。これらの移住農民が、米の改良品種、新農法を持ち込み、養豚、養鶏、養蚕などの多角経営を図り、また厳冬にも家族ぐるみで副業に励む姿を見せた。日系農家の自力更正が、朝鮮農民の意識改革に大きな役割を果たしたのである。[1,p153]

 興味深い事に、米作保護のために、現在の日本と同様の逆ざや価格政策がとられた。昭和18年の生産者の手取り価格は生産奨励金なども含めると一石62円50銭、消費者価格は43円、この逆ざやは政府が負担していた。

 農業生産が軌道に乗ると、日本への輸出が急成長した。併合当時わずか11万石だったのが、昭和3年には760万石までになった。これは日本の農家を圧迫し、日本政府は朝鮮米の輸入制限を図ろうとするが、総督府は徹底的にこれに反対して、朝鮮農民を守った。[3,p414]

 朝鮮経済の保護育成政策は、関税制度にも明らかである。朝鮮から日本に輸出されるものは免税だが、輸入は移入税を課した。後進国が自国の産業育成を図るときに、輸入関税で保護するというのは、常套手段だが、日本は朝鮮経済に対して、これを適用したのである。

 ちなみに当時の日本人の土地所有は1割程度なので、総督府の農業保護の恩恵の9割は、朝鮮農民が受けたと言える。また治山治水事業での労働に対しては、作業者に日当が支払われている。これは李朝時代には無かった事である。

■5.開発をささえた資金源は■

 こうした膨大な開発投資、産業保護を可能にした資本はどこから出てきたのだろうか。

 宇垣総督時代の総督府予算は昭和5年で、約2億円の規模であった。それに対し、朝鮮内部の税収は5千万円程度。日本の政府予算(すなわち日本国民の税金)から、毎年千数百万円から2千万円の規模の補填がなされた。この予算獲得のため、総督府の関係者が帝国議会や大蔵省の説得に奔走したというから、官僚の世界は今も昔も変わりない。それでも足りない分は、日本の金融市場から集めた公債によってまかなわれた。[1,p142]

 ちなみに大英帝国支配下のインドでは、その予算の1/3を国防費の名目で、イギリスに納めていた。それにも関わらず、第2次大戦で徴集した264万人のインド兵の費用は、イギリス人将校の給料も含めて、インド自身に負担させていたという。[1,p179]

 朝鮮総督府の事業は、その他にも教育の普及、工業発展など多くの面にわたる。その投資は、結果的に見れば、すべて日本からの持ち出しで、我が国の経済に大きな負担となった。

 しかし戦後の韓国は、このインフラを踏み台に、自由民主主義国として発展した。外交面での摩擦は続いているが、台湾とともに、ある程度豊かな自由民主主義国家が近隣にあるということは、我が国の現在の国益からみても、計り知れない価値を持つ。

■6.食料危機対応のモデルケース■

 北朝鮮が金日成政権から解放されたら、飢餓地獄から北朝鮮国民を救うべく、朝鮮総督府が行った国土開発事業をもう一度、始めからやり直さねばならないだろう。費用の問題は別として、そのモデルは、朝鮮総督府によって示されたと言って良いであろう。

 実はこの国土開発の方法は、朝鮮総督府の独創ではなく、我が国江戸時代に、上杉鷹山公(米沢藩藩主)、恩田木工(信州松代藩)、二宮尊徳などが行った農村振興を発展させたものだ。それは西洋的な自然征服ではなく、治山治水を通じて、自然と共生しつつ、農業生産の向上を図るという、優れたエコロジー的発想なのである。

 環境破壊による食糧危機は、北朝鮮だけではない。中国の最近の洪水被害も国土破壊の結果であり、いよいよ食料自給が困難になってきている。中国が食料輸入国に転落すれば、現在の国際食料価格が急騰し、アジア、アフリカ、南米などにも飢餓が広まろう。そうした視点から見れば、朝鮮総督府による国土開発事業の世界史的な成功は、貴重なモデルケースとなるはずである。

[参考]
1. 歪められた朝鮮総督府、黄文雄、光文社、H10
2. 「韓国併合」とは何だったのか、中村粲、日本政策研究センター,H8
3. 日韓2000年の真実、名越二荒之助、国際企画、H9



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